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  • 執筆者の写真斎藤 徹

記憶の中で[青の時](The Excellent Saluki 2022 (Vol.13) 東京南サルーキズファミリークラブ・東京北サルーキクラブ合同会報掲載文に加筆)

リリーと散歩に河原へ出た。初夏の夕暮れ時、空はまだ高く、木々の緑からは鳥のさえずりが聞こえていた。街の中を蛇行する川に沿って、河原は緩やかに続いている。広い流れがさざめく向こう岸は地層面があらわな切り立った崖になっており、その上に並ぶ家々は精密な模型のようだ。中にはあかりを灯している部屋もあり、窓越しの光源がかすかな星のように見え隠れしている。河原には私たちの他には誰もいない。今がチャンスとばかり、私は走りの好きなリリーをリードから放した。

その昔、リリーの祖先は砂漠でガゼルや野うさぎを追っていた。歴史は紀元前7,000年に遡り、発祥の地、古代アラビアの都市、サルクから彼らはサルーキと呼ばれるようになった。遊牧民の移動とともに中東の砂漠地帯に広がった猟犬である。遊牧民はラクダや馬にサルーキを乗せ、片腕にタカを止まらせて猟に出る。獲物の生活圏まで辿り着くとまずタカを放ち、タカは空から地上の獲物を探し、見つけると上空で旋回して居場所を知らせる。そこでサルーキが獲物に向かう。通常複数頭で群れをなし、射程距離に入ると猛スピードで追いつき、人間が到着するまで獲物の喉もとをおさえてじっと待っているのだった。砂漠地帯で遠方のものの動きを識別する動体視力が発達したため、現在この犬種は猟犬の中でも視覚獣猟犬として分類されている。世界に知られるようになったのは1800年代にイギリス人が自国に連れ帰ってからのことであった。

 今、首輪ごとはずされて自由になった私のサルーキ、リリーは細い足で力強く地面を蹴り、リズミカルな地響きを残して飛ぶように草むらの上を駈けて行く。  途中、川岸に潜んでいた数羽の水鳥たちが甲高いラッパのような声を出し、一斉に波紋を広げて中洲へ避難した。中洲には背の高い植物が密生し、こんもりとした繁みをつくっている。リリーは水鳥に気づくと直ちに方向を変え、その中洲に向かって突進した。川底は意外に深く、たちまちリリーは胸まで水につかり、後ずさりして河原に引き返した。  水鳥たちはすでに中州の繁みに姿を隠し、ひっそりとしている。高みに立ってしばし辺りを見回していたリリーは再び駆け出した。  遅れて追いついた私も同じ場所に立って周囲を眺めた。河原の先が細く枝分かれしているところがあり、中洲の奥に回り込んでいる。リリーもそれに気づいたのだろう。細いぬかるみ伝いに足跡が残っている。  間もなく水鳥たちがけたたましく騒ぎ立て、中洲の繁みから川面に現れた。続いてリリーの顔が出た。途端に水鳥たちは一斉に羽ばたき、暮れなずむ街の空に飛び去った。リリーは遠ざかって行く獲物をうらめしげに見遣っていたが、足元の川底に一瞬目を移し、繁みの中を迂回して私のいる高みに戻って来た。  私は名前を呼びながらかがみ込んでリリーを迎えた。脇に寄せて抱きしめ、肩や背中を撫でた。筋肉質な躯体を通しておさまりきれない鼓動が手のひらに伝わってくる。祖先の血がたぎり、遥か広大な砂漠の地平を呼んでいるのだろう。リリーの視線はなおも獲物の行方を追っている。遮るものが一切ない自然の中でリリーを好きなだけ走らせたいと思いを馳せた刹那、リリーは果たしてこの地で幸せなのだろうかと私は戸惑いを覚えた。その隙に持っていたリードがすり落ちた。すかさずリリーが振り返る。絡まった黒い紐が下草の上にうねっている。リリーはそのまま細長い口吻を私の顔に寄せてきた。私も顔を向けると、リリーは私の口元を嗅ぎ、穏やかな表情で舐め始めた。視界の中で長い尾が左右に揺れている。その先の空はもうすでに深い青紫に染まっていた。私は時に追われるようにリードを拾い上げ、もつれを解いてリリーに首輪をはめた。

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