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  • 執筆者の写真斎藤 徹

あるようでないもの (「仙台経済界」1999年 3-4月号掲載)

われわれは一人ひとり皆異なっている。顔つき、肌の色、身長、体重、そして性格、どれをとっても同じ人間は一人もいない。もし、一定の基準で作られたロボットであれば、その基準によって規格品とそうでないものを区別できよう。ところがわれわれは本来異なるものであるため、基準を設けることはそれほど簡単にいかなくなる。 確かに「身体」に関して見れば、身長や体重など、計画できるものは年齢ごとの平均値が基準とされている。数字として表せないものでも、例えば心臓の位置は左側と、この場合は大多数のあり方が基準となっている。とはいえ、背が高くても低くても、太っていても痩せていても、心臓が右にあっても別に構わないのであり、たまたまわれわれの多くがある程度の背丈で、ある程度の重さで、心臓を左に持っているだけの偶然にすぎない。 こうした偶然が「精神」に関しても作用するが、この場合、問題はもっと複雑になる。天の声が聞こえる超能力者と知能の優秀者を比べてみたい。いずれも能力の点では大多数の例からはずれるものの、両方同じには見られない。天の声が聞こえるものの方があからさまに特殊なレッテルを貼られてしまう。こうした違いを説明するのに、われわれに共通の感覚としていわゆる「常識」が、基準として引き合いに出されることが多い。 ではこの常識は何かということになる。一例をあげると、「個人」の価値が重きをなす欧米では、積極的に自己アピールをしないと存在が認められず、一方われわれ日本人のような、個人よりもどちらかというと「集団」を優先する社会では、「謙譲」が美徳となって、むしろ控えめな振る舞いが受け入れられる傾向にある。もちろん、どちらが良いとか悪いとかはいえない。 このように、文化や時代によって常識そのものにゆらぎがあるため、精神については具体的な基準を設けることは難しい。かえって設けようとすると、特殊な例を一般化し、なかなか取れないレッテルを貼ってしまう危険を伴う。 手のつけられなかった不良少年がスポーツ界のヒーローになったり、自閉症を乗り越えて音楽の方面で活躍する人もいる。運が良かったといえばそれまでだが、彼らは自分の個性を発揮する機会を獲得できたからこそではないだろうか。むしろ、そうした機械が多い、お互いの違いを広く認められるような社会になればなるほど、精神の基準は拡散し、ぼやけてくる。最近話題になっている「バリアフリー」という言葉が、精神のためにも必要な時代だと思う。


「仙台経済界」1999年 3-4月号掲載

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